※2 原城跡で島原の乱【島原・天草一揆】を学ぶ

    原城跡で島原の乱【島原・天草一揆】を学ぶ

    2019年11月。島原へ行ってきました。

    島原と言えば島原城が有名ですが、今回は歴史を学びに原城跡へ。

    ガイドは有料だったのですが、親切なガイドさんで、ガイドの申込をしていないパンダブにも色々と教えて下さいました。

    原城

    ここは、日野江城の支城で、海岸の小高い丘に位置しています。居城である日野江城を上回る規模でもあり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。 しかし、徳川幕府が禁教を強める中、有力なキリシタン大名であった有馬晴信は、岡本大八事件をきっかけに1612年に斬首されます。その後、原城は廃城となりました。(参考:ながさき旅ネット

    廃城となった原城が、再び脚光を浴びることになるのが、あの「島原の乱」なのでした。

    強い絆で結ばれた信仰

    鹿児島にキリストが布教されて約20年後に、長崎に島原町が誕生しました。当時集まってきた住民の大半がキリシタンであったと言われています。

    大航海時代に貿易の拡大を求めてアジアに進出したポルトガルは、1543年に日本へ到達し鉄砲をもたらしましたが、キリスト教もこの動きに合わせて宣教エリアを広げました。1549年8月15日、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸すると、翌1550年にはポルトガル船が初めて入港した平戸に赴き、領主・松浦隆信から布教を許されました。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりです。ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請によって約20年後の1571年、長崎港が開港しました。

    開港とともに、現在の長崎県庁があるあたりを先端とする長い岬の台地に新しい街が誕生しました。島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町,外浦町、分知(文知)町の6つの町が長崎における最初の町でした。当時、集まってきた住民の大半がキリシタンであったといわれています。開港後には、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開き、長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げます。

    引用元:「長崎市公式観光サイト」

    島原の乱【島原・天草一揆】

    島原の乱が起こった大きな原因は、当時の島原藩の藩主である松倉勝家が行った悪政であると言われています。パンダブが学生の頃は、「キリスト教徒が幕府に対して起こした反乱」という風に教えられた記憶があるのですが、実は、キリスト教の信仰の自由を求めるというよりは、過酷な重税をかけた藩主に対して起こした内乱(一揆)だったのです。

    松倉重正が藩主となってからは島原城の改築などを理由に厳しく年貢を取り立て、島原藩の住民へ大きな負担を強います。重正の後を継いだ松倉勝家はさらに過酷な年貢の取り立てを行い、領民を苦しめました。

    1634年台風や日照りによる凶作が続き、餓死者が続出しましたが、勝家はあらゆる税を作って、容赦なく重税を取り立てました。

    1637年、これらの重税と飢饉に農民やキリシタンらの怒りが頂点に達し、 16歳の天草四郎を総大将として島原藩の住民が遂に島原の乱を起こしたのです。

    当初は一揆勢が優勢でしたが、やがて守勢に転じ、天草勢も加わり3万人余が原城に籠城しました。幕府軍は12万人で取り囲みましたが、守りが堅固で何度も攻撃に失敗し、幕府は松平信綱を総大将として一揆の鎮圧に乗り出します。

    松平信綱は城を攻めるのではなく、兵糧攻めという方法をとり、さらに、ポルトガルからの砲撃の手助けもあり、反乱軍はどんどん衰えていきました。そして幕府軍は原城に総攻撃を開始。 反乱軍のほとんどが討死するか、のちに捕らえられて打ち首となるかの二択となり、総大将の天草四郎を始め反乱軍3万7千人が皆殺しとなり島原の乱は終結しました。 一揆が始まって、4ヵ月後のことでした。
    その後、城は破壊され、一揆勢の無数の遺体が埋められました。1938年5月30日(昭和13年)、原城跡は島原天草の乱の舞台として、国の史跡に指定されました。

    (参考: ウィキペディア(Wikipedia) 「島原の乱」、 ながさき旅ネット島原市ホームページ)

    ホネカミ地蔵

    ホネカミとは、「骨をかみしめる」という意味。 そのことから、「自分自身のものにする」さらに「人を助ける、救う」と理解すべきであると書いてありました。

    ホネカミ地蔵

    このホネカミ地蔵は、明治3年(1766年)、有馬願心寺住職と各村の庄屋らが、原城一帯から出る遺骨を、敵見方の分け隔てなく集めて供養した地蔵塔です。

    原城本丸門跡

    埋門(うずみもん)跡

    原城跡 石碑

    原城本丸で祈りを捧げる天草四郎

    天草四郎像
    天草四郎像

    天草四郎

    16歳で島原の乱の総大将となりました。

    南島原市出身の彫刻家、北村西望氏の作品です。 北村西望氏といえば、 長崎平和祈念像が有名ですね。

    島原城の一角には、 「西望記念館」 があり、平和記念像の最初の雛型なども展示してあります。西望氏を身近に感じられる場所としておすすめです。

    天草四郎時貞の墓碑

    西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が、ここに移されています。

    そびえ立つ十字架

    十字架

    徹底して破壊された原城

    島原の乱後の発掘調査により、原城跡からは大量の人骨や十字架が出てきました。その人骨の上には、 解体した原城の石垣の石や、粘土質の土が覆いかぶされていたそうです。

    幕府軍は、圧倒的に破壊し、城としての再生を不可能にしました。

    その様子はまるで、死者を恐れているかのようだったそうです。

    キリスト教においては、十字架につけられたイエス・キリストが、眠っている者の初穂として死人の中から復活したことが信仰されていることから、この「復活」を、幕府は恐れたのでしょうか。

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    海を見つめる三体の石像

    天草四郎の墓碑のフェンスの外に、そっと立っていた石像。

    海を見つめる三人の地蔵

    今回、原城を見学して、一番心に残ったもの。それがこの石像でした。

    ひっそりと、切なく。

    手には十字架を持ち、どこを見つめているのでしょうか。

    若くして亡くなった天草四郎が、仲間と故郷をみているのかなぁ…

    さいごに

    島原の乱を語るには、まだまだ勉強が足りないパンダブですが、何もない城跡からでも、当時の様子が思い浮かびました。

    今回は島原市にある、原城跡を皆さんとシェアしました。

    島原の乱はパンダブの記憶とは違い、キリスト教徒の反乱だけが理由ではなかったのですね。歴史のテキストの文字と、パンダブが見たもの。

    実際にその地で学ぶ機会というのは、人の心を動かす大きな力があると確信しました。

    島原に行かれた際は、原城跡にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

    パンダブでした!

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